組報「多摩」2005年度 第05号
蔓延元年六月築地本願寺上棟式の図
黒船襲来直後、不穏な雰囲気の渦巻く安政二年(一八五五)大地震により、築地本願寺の本堂一部破損し、その翌年八月の暴風雨により本堂倒壊。蔓延元年(一八六〇)六月上棟、文久二年(一八六二)落慶。
この図は、上棟式の図であり、当時の寺中寺院五十八ヶ寺の位置が記されている。
親鸞聖人七百五十回大遠忌についてのご消息
平成二十四年一月十六日は、宗祖親鸞聖人の七百五十回忌にあたります。本願寺では、ご修復を終えた御影堂において、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を平成二十三年四月よりお勤めすることになりました。このご勝縁に、聖人のご苦労をしのび、お徳を讃えるとともに、浄土真宗のみ教えを深く受けとめ、混迷の時代を導く灯火として、広く伝わるよう努めたいと思います。
親鸞聖人は承安三年に御誕生になり、九歳で出家得度され、比叡山で学問と修行に励まれました。 しかし、迷いを離れる道を見いだすことができず、二十九歳の時、聖徳太子の示現を得て、源空聖人に遇われ、本願を信じ、念仏する身となられました。三十五歳の時、承元の法難により、越後にご流罪となられますが、後にはご家族を伴って関東に移り、人びとと生活をともにし、自信教人信の道を歩まれました。晩年は京都で、ご本典の完成に努められるとともに、三帖和讃など多くの著述にお力を注がれ、九十歳を一期として往生の素懐を遂げられました。
親鸞聖人によって開かれた浄土真宗は、あらゆる人びとが、阿弥陀如来の本願力によって、往生成仏し、 この世に還って迷えるものを救うためにはたらくという教えです。南無阿弥陀仏の名号を聞信するところに往生が定まり、報恩感謝の思いから、如来のお徳を讃える称名念仏の日々を過ごさせていただくのです。
仏教の説く縁起の道理が示すように、地球上のあらゆる生物非生物は密接に繋がりを持っています。ところが今日では、人間中心の考えがいよいよ強まり、一部の人びとの利益追求が極端なまでに拡大され、世界的な格差を生じ、人類のみならず、さまざまな生物の存続が危うくなっています。さらに、急激な社会の変化で、一人ひとりのいのちの根本が揺らいでいるように思われます。私たちは世の流れに惑わされ、自ら迷いの人生を送っていることを忘れがちではないでしょうか。お念仏の人生とは、阿弥陀如来の智慧と慈悲とに照らされ包まれ、いのちあるものが敬い合い支え合って、往生浄土の道を歩むことであります。如来の智慧によって、争いの原因が人間の自己中心性にあることに気付かされ、心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したいと思います。
私たちの先人は、厳しい時代にも、宗祖を敬慕し、聴聞に励まれ、愛山護法の思いとともに、助け合ってこられました。この良き伝統を受け継がなければなりません。しかしながら、今日、宗門を概観しますと、布教や儀礼と生活との間に隔たりが大きくなり、寺院の活動には門信徒が参加しにくく、また急激な人口の移動や世代の交替にも対応が困難になっています。
宗門では、このたびのご法要を機縁として、長期にわたる諸計画が立てられ、広く浄土真宗が伝わるよう取り組むことになっています。七百回大遠忌に際して始められた門信徒会運動、重要な課題である同朋運動の精神を受け継ぎ、現代社会に応える宗門を築きたいと思います。そのためには、人びとの悩みや思いを受けとめ共有する広い心を養い、互いに支え合う組織を育て、み教えを伝えなければなりません。あわせて、時代に即応した組織機構の改革も必要であります。
それとともに、各寺各地で勤められる大遠忌法要を契機に、その地に適した寺院活動や門信徒の活動を、地域社会との交流を、そして、寺院活動の及ばない地域では、一層創意工夫をこらした活動を進めてくださるよう念願しております。
宗門の総合的な活動の新たな始まりとして、皆様の積極的なご協賛ご協力ご参加を心より期待いたします。
平成十七年
二〇〇五年 一月九日
龍谷門主 釋即如
法話「私の心を映し出す鏡」
私には二人の子供がおります。長男は昨年くらいから日々新しい言葉を覚え始め、また親の真似もするようになりました。
ある時、私がため息をついたら、続けて長男がため息をつきました。また妻が加湿器のスイッチを足で押した姿を見て、自分も懸命に足を上げて押そうとしました。その時、子供は親を映す鏡であるということを改めて実感しました。
考えてみますと、鏡というものは私の姿や形をそのまま映し出します。しかしどんなに立派で高価な鏡でも、私の心までは映すことは出来ません。
もしも私の心を映す鏡があるならば、そこにはどのような私が映るのでしょうか。
物事を損得で考え計算ばかりしている私、あるいは自分を他人と比べて喜び悲しんでいる私かもしれません。まさに自分中心に生きようとする私の心が映ることでしょう。
私は親鸞聖人がお示し下さった阿弥陀様のみ教えを、「私の心を映し出す鏡」と頂いています。
鏡には、私達の姿が「うつされ」「知らされ」「正され」ていく働きがあります。
つまり阿弥陀様の教えを聞くということは、鏡に自分の姿が映るように、本当の自分の姿がありのままに映され、知らされ、正されていくということです。
み教えを中心として、私のあり様や私の人生をもう一度考えさせていただきたいものです。
阿弥陀様のみ教えを私の心に頂くご縁として各お寺にお参りいただければと思います。
應善寺住職 伊藤 寛之
なぜなにQ&A
「法事について教えてください」
法事は、亡き人をご縁に勤められるために、亡き人への追善供養だと思っている人が少なくありません。
追善供養とは、善を亡き人に回し向け、故人の成仏を願うことです。
浄土真宗では、阿弥陀様のお救いによって亡き人は往生即成仏させていただきます。ですから、追善供養をする必要がありません。
逆に、いのちの尊さやはかなさを身を以って教え、悟りの身と成られてこの娑婆で苦悩する私たちの幸せを願っていてくださっている、その亡き人の願いを聞かせていただく場が浄土真宗の法事と言えましょう。
法事は、亡き人のためにあるというよりも、今、ここに生きている私たちのためにあるのです。
亡き人をご縁に、残された者がいのちについて考え、阿弥陀様のお救いを喜び、亡き人の願いに出遇う場、それが法事を勤めるという意義なのでした。(藤原)
住職に聞きました
「お寺を訪ねて 仙川六ヶ寺」
(調布市若葉町)
大正十二年九月一日に発生した関東大震災のため、浄土真宗本願寺派築地別院と寺中子院五十八ヶ寺はともに全焼しました。
その後、東京市は防災上の見地より、道路網拡充と都市計画整備方針に基づき、一部子院の立ち退きを求めました。本願寺はも首都人口の増加と郊外拡散に伴い、寺院の郊外移転を奨励しました。
そこで大部分の寺院は移転先探しを始めましたが、お寺に墓地があるということで移転先が限られ、どこでもよいとはいきませんでした。
ようやく東武沿線、京急沿線、京王沿線などに、数ヶ寺ずつが集団移転することになり、別院からあまり遠くなく、乗降駅から歩いて行けるという条件に、下町在住のご門徒の合意を得て、仙川に西照寺、光西寺、安養寺、光徳寺、正善寺、明西寺の六ヶ寺が移転し、仙川真宗六ヶ寺が誕生したのでした。その他多摩組内の延浄寺、光源寺、長專寺、覚證寺、應善寺も移転してきた寺院です。
寺院の移転工事は、おおむね昭和二年頃から始まり、昭和四年に終わりました。当時の仙川は現在とは異なり、ヒバリが鳴くのどかな農村地帯で、駅からお寺まで畑と数軒のお屋敷があるのみで、法事、墓参りに訪れるご門徒にとっては、一日がかりであったのです。
西照寺の池にいたちが水を飲みに来たり、仙川商店街の丸小から斉藤食品店にかけた松林では、きのこが採れたりしました。また、戦時中は、実篤公園裏の高台に高射砲の陣地ができたとのことです。
仙川六ヶ寺は開基以来、幾多の困難を乗り越えて法灯を守り、布教活動を行って参りました。二十一世紀に入り、地域社会の中でますますその存在が重みを増し、開かれた寺院としての活動も求められております。(西川・大久保・石岡)
光西寺
当山は、約四百年前、本願寺第十一世顕如上人より御本尊の下付を受け、釋休呑法師を開基として創建されました。
明暦三年の江戸大火に羅災、浜町御坊移転を機とし築地本願寺別院寺中となる。
また、大正十二年関東大震災の難に遭い、新たに教化の地を北多摩郡神代村入間(現在地)に基壇を儲け、以来住職三代七十年に至る。
仙川駅から光西寺までは平坦で、なおかつ仙川駅はエレベーターが付いておりますので、障害を持っている方にも優しい町です。当時は、三年前本堂の改築の折に車椅子用のリフトとエレベーターを設けて、本堂や客殿まで車椅子で行けるようにバリアフリーにしました。
墓地の方も徐々に車椅子でお参り出来るようにしてゆく方針です。(住職 飯田修)
安養寺
安養寺は玄智により開創されて、やがて四百年を迎えます。さらなる百年への礎を築かんと、熱い門信徒の願いが記念事業の一つとなり、客殿庫裡建設事業が進展しています。その歴史は江戸の町並みによる事が災いしてか、明暦の大火に始まり、何度となく堂宇を焼失していますが、その度に再建して法灯を守ってきた苦難の歴史でもあります。
また、「武州の三大家」の一人と言われた第六性均が著名です。
知空に師事して宗学を修め、自ら預死了人と称して念仏三昧の生活にいそしみ、判明するだけの著書でも二十一篇あり、その中には二十巻に及ぶ大作もあり、龍谷大学・大谷大学の図書館に一部所蔵されています。このような中、法灯を今受け継ぎ、永代に受け伝え、発展させんと願って活動しています。(住職 菅義照)
明西寺
調布仙川の地に写ったのは昭和四年二月のことである。
本堂は昭和九年に入仏され、山門は昭和十六年に購入移築されたものである。
元和八年開基の了頓が一宇を建立し、築地を継由し現在に至るまで二十代三百八十三年の歴史が経過した。
平成四年六月二十五日本願寺第二十四代即如上人のお立ち寄りを記念し、仏教壮年会が発足し、仏教婦人会と歩みを共にし、寺内に本部を置くスカウト育成会と併せて一貫した生涯聞法道場の基礎ができあがった。
現在、ご門徒と寺族が一帯となり、おみのりに耳を傾け教化伝道に、そして「念仏の声を世界に子や孫に」の教団スローガンをこころとして日々精進してゆく所存です。(住職 佐々木了宣)
光徳寺
当寺の過去帳からは築地移転以後の事しかわかりませんが、史料では浜町御坊の末寺の中にその名が見られます。
当寺は明暦の大火後御坊や寺中とともに築地へ移転したものと推測されます。
さらに関東大震災後の昭和四年に築地の寺中五ヶ寺とともに調布の現在地に移り、今日に至っております。
境内地には、移転当時植えられた桜、銀杏、梅、柿、椿などの古木がのこり、特に春の満開の桜は見事ですし、秋に柿や柚子がたくさんの実をつけます。
現在の行事としては修正会・新年会、春季彼岸会、宗祖降誕会、総永代経、総盂蘭盆会、新旧暦盂蘭盆会、秋季彼岸会、宗祖報恩講の各法要が勤められております。(住職 斯波照雄)
西照寺
西照寺は寛永年間(1642)、開基了源によって江戸浅草横山町に創建されました。
万治元年(1658年)浅草御坊(現在の築地本願寺)の築地への移転にともない築地に移転しています。大正大震災の後、移転先を当時の住職養淳の妹の嫁ぎ先が仙川に土地を所有していた縁で、現在地に昭和二年に土地を求め、昭和三年に築地より現在地に移転しました。
養淳は移転後村の子供達を集め、子供会を始め四十年間続けました。
現在毎月八日に法話会また第四土曜日には親鸞会(法話を聴く集い)と月二回法話の集いを午後一時より行っています。どなたでも参加できます。どうぞ一度ご参詣下さい。
初めてのお寺は入りにくいかもしれませんが、皆さんのお参りをお待ちしています。(住職 酒井淳)
正善寺
淨土への道は
淨土から
開かれたものである
(金子大栄師)
関東は真宗教団発生の地の伝統が今も脈々と受け継がれておりますが、お寺の法座へのお参りは年々減っていくばかりです。一方地方自治体やマスコミが開くカルチャー教室では、仏教講座が盛況であると見聞きしております。その原因は何なのだろうか。
いろいろな原因を、話し合い法座が指摘しております。対策もいろいろ。「法に問い、法に聞き、法を語り」お念仏を、ご開山親鸞聖人のご領解を通して実践してゆかねばと存じます。
念仏は私が仏を呼ぶ声でなく
仏が私をよびたもう声
仙川の真宗六ヶ寺の一寺院として、他力のみ教えを子や孫へ伝え、多くのびとの幸せに貢献してゆきたいと念じております。(住職 佐々木賢秀)
多摩組の活動
全国仏教壮年東海大会に参加
六月二十六日に「第十八回全国仏教壮年東海大会」が名古屋市熱田区の名古屋国際会議場で開催されました。
多摩組仏教壮年連盟は、世田谷組、神奈川組、都留組、埼玉組、そして築地別院と共に団参を組み、二十五日からバスをチャーターして四十二名で愛知に行ってきました。
二十五日には愛知万博「愛・地球博」を観覧。今話題の万博とあって、開場は大勢の人、人、人…。人気のパビリオンはどれも数時間待ちの状況で、雰囲気だけは何とか堪能できました。大会のメインテーマである科学技術の発展と環境問題、仏教徒の立場で自分に何が出来るのか、参加者一人ひとりが深く考えさせられました。
二十六日の全国仏壮大会は、全国から二千九百七十五名の参加者を集め開催されました。
大会テーマである「『同朋(とも)にあえる喜び』ー苦悩を語り合い、喜びを分かちあえるお寺を目指して」のもと、誰もが安らげる開かれたお寺にするにはどうしたら良いのか、子供家庭教育フォーラム代表の富田富士也先生のユーモアの中にも心打たれる記念講演を聴聞し、今後の仏壮活動のますますの充実を共に誓い合いました。
行き帰りのバスの中では、教材のビデオを視聴し、話し合い法座を行いました。各人から活発な意見が出て、大変有意義な時間を過ごしました。
また、各組各寺の仏壮会員とも懇志を深め、「同朋(とも)にあえる喜び」をひしひしと感じました。
今大会への参加は、色々な意味で今後の仏壮活動にプラスとなることでしょう。そして、この大会に参加して得た「気づき」や「目覚め」を、今後如何に生かしていくのか、それが一番の課題であります。(石岡)